翌朝は嘘のようにからっと晴れあがった。その日は、日帰りでミンモが入院している病院まで行ってくるつもりだったが、ここからは電車で片道三時間以上かかる。わたしは、眠いまなこをこすりながら食堂に下りて朝食をとり、近くのバス停から中央駅へと向かった。電車で二時間も揺られていると、地形も、それまでは尖って岩肌も剥き出しだったのが、女性的ななだらかな田園地帯へと変わっていった。そして、その一時間後には、電車は海岸線を走っていた。
目的地の駅には、ノベルが迎えに来てくれることになっていた。ミンモの恋人だ。ホームに降りて左右を見わたすと、ひとりの女性がこちらへ歩いてきた。日焼けした褐色の肌に白い麻のブラウスがよく映える。ノベルだろうか。
「あなたがマリオ?」
「じゃあ、あなたがノベルね」
そのひとは低い穏やかな声で、想像していたとおりとても理知的な感じがした。
「彼、どんなぐあいですか?」
「おかげさまで、いまのところ小康状態が続いているわ」
ノベルのフォルクス・ワーゲンで病院へと向かった。
「ミンモのいる部屋からは海が見えるのよ」
このまま順調に快復していけばリハビリもはじまることだろう。そうすれば、いずれどこか別の病院に移ることになるのだろう。ここではリハビリ施設はまだ整っていなかった。
「昏睡状態のあいだ、あなたが送ってくれたバッハのCDをちゃんと録音して枕元に置いていたのよ」
「ミンモ、バッハを崇拝していたものね」
病棟の重いスライド式の扉が開かれた。ミンモは、上半身を起こしてベッドの背にもたれかかっている。わたしたちに気づかなかったのだろうか、じっと前を見つめたままだ。ノベルはミンモの痩せこけた頬を右手の甲でさすった。
「だれだかわかる?」
耳元に顔を近づけ、ノベルがゆっくりと言葉をかけたが、ミンモの眼差しはどこかをさまよっていた。
「スキンシップがいいらしいのよ。手をさすったり頬をなでたりして感覚を刺激するの」
わたしは、ミンモの右手を両手でそっと包んだ。すると、手の平のなかで、かすかに指が動くのを感じた。
「医療ミスだったのよ。ちゃんとした診断が下されていれば、こんなことにはならなかった。これから病院を相手どって裁判に持ちこむつもり」
悔やんでも悔やみ切れないといったところなのだろう。そのかたわらで、ミンモは、笑みを浮かべている。
「夜になると悲しそうな顔をするから、横に座って身体を抱きかかえながら歌を歌ってあげるの。Smile, what's the use of crying? You'll find that life is still worthwhile if you just smile....」
ノベルはミンモの横でチャップリンのスマイルを口ずさんでいた。歌っているのは彼女だったが、本当はミンモが彼女を勇気づけるために歌わせているような気がした。
「そろそろ失礼ようかな。ほかの面会の方たちの時間がなくなってしまうといけないから」
外はまだ日が高く、フェンスの向こうの海は黒くぎらついていた。わたしは、駅まで送ると言ってくれたノベルの申し出を断り、ひとりで駅まで歩くことにした。焼けつくような陽射しも、もう厭わしくはなかった。