2011年1月31日

月待ち茶屋 - III



 この町のいちばん古い通りには、むかしの蔵を改造した茶屋がある。ある日のこと、わたしは、カンタロウおじさんから呼び出されて、その茶屋まで出かけることになった。なんでも、この町の鯉のぼり作家が作品を展示しているとかで、きっとわたしにも気にいるだろうからと声をかけてくれたのだった。その通りの材木問屋が軒を連ねるあたりまで来ると、ほのかに木の芳しい匂いがした。軒先にずらりと立てかけてある材木から匂ってくるのだ。伐採された木は、上流から川をつたってここまで運ばれてきていた。

 格子戸を開けてなかに入ると、玄関からずっと向こうまで三和土が続いている。茶屋になっているお蔵はそのいちばん奥にあった。靴を脱いで上がろうとすると、後ろから声がした。カンタロウおじさんだ。わたしたちは、靴を揃えてスリッパに履きかえ、お蔵のなかに入った。板張りの床は、歩くときしきしと音が鳴る。

「おお、ようこそ、いらっしゃい」

 言葉をかけてきたのは、カンタロウおじさんとちょうど同い年くらいの男性で、鯉のぼり作家というのはそのひとだった。お蔵の天井からは大きいものから小さいものまで大小さまざまの色鮮やかな鯉のぼりが吊り下げられていたが、どれも手描きで、華やかな色彩に彩られていた。ひとつずつ、ゆっくりと作品を見学した後で、わたしたちは、鯉のぼり作家を交えてお茶をいただくことになった。そのひとは、長年、この町で和紙作りにたずさわってきたのだという。だが、あるとき、その和紙で鯉のぼりはできないものかと思いついたそうだ。紙芝居作家のカンタロウおじさんと、この鯉のぼりおじさんは、気のあった茶飲み友だちという関係だった。

「子どもっていうのは、不思議なもんで、ひとりひとりが生まれたときからまったく違うんですよね。違う星からやって来たからじゃないかって、僕なんか思っちゃうんですけどね」

 紙芝居を作るカンタロウおじさんらしく、いつものようにファンタスティックなところへと話が飛んでいく。

「むかしは、七つ前は神のうちなんてよく言いましたよね。僕も、子どもは神さまからのお預かりものっていう気がしてならないですよ。それが、もうすぐうちにもそのお預かりものがあるかも知れないんですよ

「そりゃあ、おめでたい。こんどは、鯉のぼり爺さんになるわけですな」

 鯉のぼりおじさんは、そう言われて照れくさそうに笑った。しばらく三人でそんな話をしていたが、突然カンタロウおじさんが、みんなでお月見をしていかないかと言い出した。茶屋の裏手には櫓が組まれており、そこからは月がよく見えたので、町のひとたちはそれをお月見台と呼んでいる。山の向こうにぽっかりと月が昇るときなどは、それが川面にゆらゆらと映っても見える。

 「お月さまにいるのは、兎じゃなくて鯉なのかも・・・」

 わたしがそう言うと、カンタロウおじさんは、そんな紙芝居をひとつ考えてみようかと言った。

  茶屋の木戸を開けて外に出てみると、あたりはもう夜の帳が下りようとしていた。お蔵のわきに造りつけられている階段をのぼってお月見台に上がると、日よけ用の朱い蛇の目はとっくに取り外されており、目の前の視界は大きく開けていた。そろそろ昇ってくるころだろうか、ダークブルーの空がさらに深まったころ、赤い山の向こうがほんのりと明るくなった。すると、あたりの雲にその明かりが反射して、まるで夕焼け雲のようにオレンジ色に輝いた。しばらく待っていると、雲が動きだし、そのあいだにまん丸の月が顔を出した。今日は満月だった。

 
 ある満月の夜のことです。空から光がひとつ降ってきて、どこかの川に落ちました。その光は、金色の魚になって、川のなかを泳ぎはじめました。

 その川の水がきらきら光るのを不思議に思った一羽のツバメがいました。ツバメは、その上を飛びながら、川のなかをうかがっています。

 しゅぱっ!川の水がいきなり噴水のように飛び散って水面に魚が飛び上がりました。しゅぱっ!もう一度、飛び上がりました。

「ようし、もう一度。しゅぱっ!」

「魚さん、なにしてるの?」

「空を飛ぶ練習ですよ」

 魚は、じぶんの頭の上をいつも飛んでいる鳥を眺めながら、じぶんも飛んでみたいと思っていたのです。

「それじゃあ、わたしが飛び方を教えてあげましょう。その代わりに、わたしにも泳ぎ方を教えてください」

 ぴかぴか光る魚に、ずいぶんと憧れていたツバメは交換条件を持ちかけました。

「それじゃあ、満月の夜、ここで会いましょう」

 それから毎日、魚は飛ぶ練習をし、ツバメは水のなかを泳ぐようなかっこうで飛びました。そして、満月の夜、一緒に泳いだり飛んだりしているうちに、魚とツバメはひとつになってしまいましたとさ。 

 
 カンタロウおじさんたちと楽しいひとときを過ごした後、家に戻ったわたしは、ひとり囲炉裏にあたりながら、窓際に置いてある赤い小石を眺めていた。それは、いつかカンタロウおじさんが山から拾ってきてくれた赤いチャートという石だ。陽あたりのいいところに置いたらきれいだよと言われて、朝陽のよく差し込む窓際に並べたのだった。その、カンタロウおじさんがよく行く山は、「赤い水晶の山」と呼ばれているが、それにはちゃんとしたわけがあった。

「長いあいだ、あの山の地層のことはわからなかったんだが、つい最近になって、あれはマリンスノーでできていることがわかったんだよ」

 いつかのカンタロウおじさんの説明によると、数億年かかって深海に堆積したマリンスノーが、一億年前の地殻変動によって隆起してできたのがあの山ということだった。マリンスノーというのは、珪酸質、つまり水晶のようなものから成るプランクトンの屍がおもだが、植物プランクトン光合成で酸化鉄サビ)も生まれるので赤く染まっている。紙芝居の舞台と拍子木に使う木を探すために、これまでさんざん山のなかを歩き回ったというカンタロウおじさんは、赤い水晶の山のことは隅々まで知りつくしているというのが自慢のひとつだった。わたしには、その山歩きが、カンタロウおじさんの巡礼のようにも思えた。

 なん億年も前のマリンスノーでできている赤い小さなチャートを見ていると、ここにこうして生きていることが、ほんの一瞬の出来事のように思えてしかたがなかった。マリンスノーは一年でせいぜい2マイクロメートルしか積もらない。あの山の高さになるまで二億年もかかるのだ。そして、わたしがこんなことを言うと、カンタロウおじさんは、ただ笑いながら聞いていた。
 
 「死んだら、わたしも灰になって、マリンスノーみたいになん億年もかけて海底に沈んでいきたいな。そして、赤い石になって、だれかに拾われて、窓際に置いてもらうんだ」

 

2011年1月25日

月待ち茶屋 - II

 
 ここに戻って最初にすることは買出しだ。この家の周りにはなにもないので一週間分はまとめ買いをする。いちばん近くにある市場でも車で一時間ほどかかるし、たいていは昼前に店を畳んで引きあげてしまうので、出かけるときは早起きをする。野菜や果物は地域の農家が出荷し、肉や魚は大きな町から、日によって新鮮なものがあればとどけられた。
 
 買出しから帰ってみると、朝つけておいた囲炉裏の火はもうしっかりと据わっていた。机の上には、長いあいだ読んでいない本が山積みになっている。そのなかから一冊取り出して、ときどきうとうとしながら目を通していると、だれかに名まえを呼ばれたような気がした。空耳のようでもあった。すると、今度はコンコンと窓を叩く音がした。外をのぞいてみると、そこにカンタロウおじさんが立っていた。

「やあ、マリオちゃん。近くまで来たから寄ったんだけど、車があったからいるのだろうと思って」

「どうぞ、どうぞ。お茶でも淹れるわね」

 カンタロウおじさんは隣町に住んでいた。長年の会社勤めを辞めて、いまではじぶんで作った紙芝居をいろんなところで演じている。ときどきこの町に来るのは、紙芝居の舞台や拍子木作りに使う材木を調達するためだった。囲炉裏の前の座布団に腰を下ろすと、カンタロウおじさんは、鉄瓶をのぞき込んだ。お湯はもう沸いていた。

「おばさんの具合はどう?」

「ああ、元気にしてるよ」

 二年前から寝たきりになってしまったおばさんの介護のためにも、おじさんは会社を辞めたのだった。そして、そんなおばさんに手作りの紙芝居を聞かせてあげるのが、カンタロウおじさんの日課であり、楽しみでもあった。

「紙芝居をしているときがいちばん嬉しそうかな

 カンタロウおじさんは、照れくさそうにそう言った。その日は、わたしも、聞いてもらいたいことが山のようにあった。コロニアで出会った絵のこと、チェリモンターナのジャズフェスとミンモのお見舞い、そして、ヴァイオリンのこと。

 「そういえば、アルゼンチンで素敵な話を聞いたわ」

 それは、サルヴァメ・マリア(マリアよ我を救いたまえ)という一風変わった名まえのカフェでのことだった。遊び半分で占い師にみてもらったそのすぐ後で、わたしは、ミミとサルタ出身の友だちと三人でそのカフェに行ったのだが、そのとき話題にのぼったヴァイオリンの話というのがとても印象に残っていた。

「そのお友だちというのが、アルゼンチン北部の民族音楽家一族の生まれでね、お爺さんの代まではみんなヴァイオリンが弾けたらしいの。それで、晩ご飯が終わると、家族そろって外に出て、星空の下でヴァイオリンの練習をしたそうよ

 カンタロウおじさんは、黙ってわたしの話を聞いていた。

でもね、ヴァイオリンの音があんまり響くと、ときどき本当に怖くなるって、そのひと言うのよ」

 すると、カンタロウおじさんはこんなことを言った。
  
 「ヴァイオリンにもアルマ(魂)があるんだよ。知っていたかい?」

 「アルマ?」

 「細くて小さなつっかい棒のようなものでね、表板から裏板へ振動を伝えるたいせつな役目があるんだ。それがないとヴァイオリンは楽器として働かないんだよ。でも、いったいだれが、魂なんていう名まえをつけたのだろうね」

 「ダ・ヴィンチ?・・・だったりして」 

 わたしは、思わずその名を口にした。 

 「いやいや、本当にそうかも知れないよ。確か、魂は肉体に生きることを望んでいる、肢体がなければ動くことも感じることもできないって言ったのは、ダ・ヴィンチだからね」

 そんな話をしていると、星空の下でヴァイオリンを奏でるお爺さんの姿が思い浮かんだ。

「山にヴァイオリンが響きわたると、空からなにかが降りてきて、そのままお爺さんはどこかへ連れていかれてしまいましたとさ」

「そうか。宇宙人は、ウィトウィルス人体図のことはすでに知っていたけれど、ヴァイオリンもそれと同じだってわかったんだわ」

 カンタロウおじさんとわたしの空想は、どんどん広がっていった。

「ヴァイオリンなら、紙芝居にもひとついい話があるよ。『やぎじいさんのヴァイオリン』っていうんだけどね」

 そこで、カンタロウおじさんは、臨場感たっぷりの紙芝居調で、その話を聞かせてくれた。

「森で、やぎじいさんは道に迷ってしまったのです・・・そして、オオカミの家に迷い込んでしまいました・・・・このままでは食べられてしまいます・・・さあ、どうしましょう・・・そうだ、ヴァイオリンを弾いてみよう・・・・その音色を聞いたオオカミは、このやぎじいさんを食べるのが怖くなってしまいました・・・・」

 カンタロウおじさんと話していると、いつも時間があっというまに過ぎてしまった。いくらでも、話題にこと欠かないひとなのだ。そして、そんなカンタロウおじさんは、身寄りのないわたしにとっては父親代わりのようでもあった。
 
 「ちゃんと鏡は磨いているのかい?」

 わたしが少しでも曇った顔を見せると、カンタロウおじさんは、こんな風に声をかけてくれた。曇っているのはじぶんじゃなくて鏡なんだよ、と。そして、絵を描くときは太く、はっきりと輪郭を描くのがいい。いびつに曲がっていても、ぜんぜん構わない、たいせつなのは、どんな曲線が書きたいのか、ちゃんと知っていることだ。そう言っていつも指導しながら、絵を描く楽しさを教えてくれたのも、カンタロウおじさんだった。

2011年1月20日

月待ち茶屋 - I


 薄暗い駐車場のなかで、長いあいだ停めておいた車を見つけ出すのはひと苦労だった。やっとのことで車をみつけ、エンジンをかけた。ちゃんと動いてくれて救われたような気分だ。ここから先は、高速と、さらに内陸の山あいを一時間ほど走らなければならないが、機内ではいつになく熟睡できたので眠気はほとんどなかった。わたしは、ローマのジャズフェスで手に入れたマーゴのCDを聴きながらゆっくりドライブしいていくことにした。
 
 高速を下りてしばらくいくと、街灯もなくなり、月明かりでもなければなにも見えないほどだったが、道路のわきに川が流れているのがなんとなくわかった。今日は満月なのだろうか。これから昇ってくる月が稜線を照らしはじめていた。そして、川岸のあたりには小さな青白い光がいくつも動いて見える。蛍だ。数十匹もいるだろうか。その先の道路は、アスファルト敷きから砂利道に変っていた。

 ひと里離れたところにあるこの家は、祖父が残してくれたものだった。祖父は、人形浄瑠璃の語りをしていた。わたしが学校にあがるまで親代わりだったが、その祖父も、交通事故で亡くなってしまった。家の敷地のまわりには石塀も門も造られておらず、その代わりに糸杉が植えてある。冬は冷たい風を遮り、夏は陽射しから守ってくれる。庭先に車を停めてエンジンを切ると、もう、もの音一つ聞こえてこなかった。ときおり遠くに山鳥の啼き声がするくらいだ。車から降りて身体を伸ばし、深呼吸すると、凛とした空気が肺のなかに入ってきた。ここは、夏でも暖をとらなければならないほど夜が冷え込むこともある。今夜は薪をくべた方がいいかも知れない。そんなことを考えながら厚い扉を開けると、家のなかからはかび臭いにおいがした。

 翌朝は、夜が明けないうちから小鳥の囀りが聞こえていた。眠りについているわたしの意識をどこか遠いところからここへと連れ戻してくれるのは、この鳥の声なのだ。こうして、朦朧としていたじぶんが、少しずつ周囲の空気のなかに溶け込んでいく。いまどこにいるのか、今日がいつで、何曜日なのか、思い出すのはそれからだった。

 わたしは、しばらくベッドに横になったまま、ぼんやりと薄暗い部屋の天井を眺めていた。カーテンの隙間からは、鈍い光が差し込んでいる。家のなかのなにもかもが冷えきっているようで、なかなか起きだす気になれなかったが、時計の針はすでに11時を回っていた。ようやく起きあがってスリッパに足を突っ込むと、スリッパも湿気ていた。わたしは、床に積んであった新聞を丸め、マッチで火をつけて囲炉裏の薪の下の方に押し込んだ。
 

2011年1月14日

ソルフェリーノ通り - VI


 マルチェロの家を出たとき、時計の針はすでに午前零時を回っていた。ニコリノさんやエンリコと別れ、マンゾーニのアパートまでぶらぶらと歩いて帰ることにしたわたしは、道すがら、チノケンさんの資料に出てきた一枚の絵のことを考えていた。ダ・ヴィンチの『レダの肖像画』だ。といっても、現存しているのはコピーだけでオリジナルは破棄されてしまっている。このコピーの一枚がウフィッツィにあると聞いていたのだが、わたしが行ったときはローマの美術館に貸し出されていたため見ることができなかった。これは、ギリシャ神話を題材にしたものなのだが、レダと白鳥になりすましたゼウス、そしてふたりのあいだにできた子どもが描かれている。ところが、チノケンさんの資料によれば、その子どものひたいにガスパールという名がしるされているというのだ。そして、それを、あのヴァイオリン製作家のガスパール・ティーフェンブルッカーのことではないかと推測している。ダ・ヴィンチとティーフェンブルッカーのあいだには交流があったようなのだ。

 レダに関しては、その習作としてデッサンがいくつか残っている。耳元でカールする髪や後頭部などを見ていると、ヴァイオリンの渦巻きのようでもある。それに、立ち姿の女性像というのも・・・。わたしのイマジネーションはどんどんエスカレートしていった。

 
 レダのオリジナルが消えてしまったのはなぜだろう。男女の性愛を描くことは当時はタブーとされていた。それで、彼みずからが破って捨てたとも言われているのだが。でも、あのダ・ヴィンチがそういったことを気にするだろうか。彼の関心は別のところにあったのでは・・・。

 あの絵のなかには「なりすまし」というモチーフがある。鑑賞するひとは、白鳥をみながら、実は意識下ではゼウスを思い描いているわけだ。ちょうど、わたしが、聖母子像の幼子をみながら、それにストラディヴァリウスを重ね合わせていたように。彼は、ゼウスが白鳥になりすましてレダの誘惑に成功したという点に注目していたのではないだろうか。

 「ダ・ヴィンチにはどうしてもその黄金比を証明できなかったものがあった」

 そう、エンリコが言っていたではないか。

 「声というのはやっかいなものだ。ゼウスと同じで目に見えない。なんとかして、それをなにかに化かして、ひとびとを虜にさせる方法はないものだろうか。黄金比をちりばめた完璧な声が作れるものはどこかにいないものか・・・」

 と、ダ・ヴィンチが本当に言ったかどうかは知るよしもないが、わたしは、この推理をチノケンさんに聞いてもらうことにした。

 個人的には、ダ・ヴィンチとティーフェンブルッカーの出会いがヴァイオリンの誕生のきっかけとなったという説を推したいです。理論的な根拠というよりは個人的な希望です。その方がロマンを掻き立てるじゃないですか。

 このヴァイオリンの誕生に関してだけは非常に難しいです。アラビア方面やインド方面の古代楽器がもとになっているのではという説もあながち捨てきれるものではないですし。ただ、あの楽器のみごとなまでのバランスのとれたプロポーションが以前から存在していたと考えるのは難しいのではないでしょうか。五百年以上変わることなく保ち続けられている、このあたり、やはりダ・ヴィンチの存在が関わっていても不思議ではないと思います。

 それから、もうひとつ。実は、ヴァイオリンの古い作図法のもととなっているのは〇のなかに正十角形なんです。だから、マドニーナの写真の満月と十字架を見たとき、つい、ヴァイオリンのことを考えてしまいました。 

 
  ヴァイオリンの作図のもとになっていたのが〇と正十角形だとは思ってもみなかった。あの、ニコリノさんの写真にあった満月と十字架からヴァイオリンを連想するとは、さすがにチノケンさんだ。わたしは、そんなことを考えながら、うだるような暑さのなか、マンゾーニ通りをスカラ座方面に歩いていた。そろそろ、ミラノを発つつもりだったが、その前にもう一度だけ、ドゥオーモのマドニーナ像を見ておきたかったのだ。

 スカラ座の前にあるダ・ヴィンチ像の脇を通ってガレリアを抜けると、巨大なゴシック建築が目の前に現われた。黄金のマドニーナは、その尖端に十字架を掲げて立っている。なんという力強い姿なのだろう。その像に見とれていたが、それもつかのま、午後の強い陽射しに立眩み、わたしは、カテドラルのなかに入った。そこで、外界の荒々しさから守られているという安堵感を味わいながら、椅子に腰を下ろし、少し離れたところから、その空間を埋め尽くしている数々の宗教芸術を眺めていた。ふと、頭上に視線を移したとき、わたしの目に磔刑のキリスト像が留まった。位置的には、外側のマドニーナの像の下にあたるだろうか、天井から吊り下げられてる。それは、このカテドラルという大きな母胎のなかで誕生を待っている新たな命を思わせた。そのとき、わたしのなかで、ゆっくりと映像が動きだした。そうだ、彼女が手にしている十字架は、この磔刑の十字架なのだ。
 
 ある夜、彼女はこっそりと三脚を準備し、そこを通りかかることになっていたひとりの写真家の目につくところに置いた。

 カテドラルに引き返した彼女は、磔刑の十字架をその手で取りはずし、建物の尖端によじ登った。

 写真家が近づいてくる。彼は、その三脚を開き写真を撮りはじめる。計算通り、満月のなかに十字架が重なる。

 彼女はこころのなかで呟いた。

「声よ、わが肉体の闇を照らしたまえ・・・」

 そのとき、月の光のなかで、再生の産声とともにヴァイオリンの音が響く・・。
 
 
 カテドラルを出ると、先ほどの目の眩むような陽射しもこころなしか緩いでいた。これでミラノともお別れだ。長いあいだヴァイオリンの夢をみさせてくれてありがとう。わたしは、マドニーナにそう告げて、ドゥオーモを後にした。
 

2011年1月9日

ソルフェリーノ通り - V

 
 その日の午後、マルチェロから電話が入った。数年前、ミラノで個展を開いたときに来てくれたニキさんのヨガ友だちだが、わたしがミラノにいると風の便りで知ると、こうしていつも声をかけてくれるのだった。その晩は、マルチェロの家でヨガ道場の仲間が集まることになっていた。

 マルチェロの家はソルフェリーノ通りのラルゴ・トレヴィスという広場に面している。フランス式の木造エレベーターで最上階までゆっくりと昇っていくと、扉が開き、マルチェロと奥さんのマルチェラが笑顔で迎えてくれた。おっとりして朗らかなマルチェロはヨガ歴が長い。そして、小柄で細身だが健康的なマルチェラはヨガではなくジムに通っていた。東洋通のマルチェロととてもイタリア的なマルチェラだったが、ふたりはとてもお似合いだった。そして、シンプルだがどこか品格をたたえたブレラらしいこの家に来ると、いつも、清々しい気分になるのだった。明るく広々としたリビングの漆喰の壁には見覚えのある絵が掛かっている。空に青い島が浮いているわたしの絵だ。バルコニーからはすぐ下のソルフェリーノ通りやブレラ美術館が一望できた。しばらくすると、ニコリノさんとエンリコが到着した。マルチェロが冷えた白ワインを振舞ってくれているあいだに、台所ではマルチェラがパスタの準備に取りかかっている。バジリコとトマトの冷製パスタが出来あがると、みんながテーブルに揃った。

 「このあいだ、市立美術館のダ・ヴィンチの展示会に行ってきたの。科学者ダ・ヴィンチをクローズアップしたものだったんだけど、ウィトルウィウス的人体図なんかもあってなかなかおもしろかったわ」

 「ウィトルウィウスといえば黄金比ですよね。死体を解剖してまで人体が黄金比から成ることを証明したんだから凄いですよね、彼は」

 「黄金比といえば、僕はすぐにオウムガイを思い出しますね」

 ニコリノさんが言った。 

 「あれは、月の満ち欠けのリズムに呼応して成長するそうですよ。そのオウムガイから派生したのがアンモナイト。アンモナイトは環境に順応しながら形を変えたので大繁殖したけれど、あるとき絶滅してしまうんです。ところが、黄金比の螺旋形をずっと守り続けたオウムガイは、隆盛を極めることもなかったけれど、いまでも生き続けているというわけです」

「黄金比というのは永遠性の象徴でもあるってことね」

 マルチェッラの指摘にはなるほどとみんなが納得した。黄金比については、みんないろいろと思うところがあるようだったが、そこでマルチェロがおもしろいことを言い出した。  

 「ある気功師さんの話だけど、発声力と声帯と黄金比のあいだにはなんらかの関係があるらしいね。要は、声の出し方なんだそうだ

「発声力は心身を黄金比に近づける調律師ってことなんですかね?」

 ニコリノさんがそう言うと、その場はたちまち発声練習の場に変わった。みんながまちまちに声を出しはじめたのだ。そして、そのとき、ふと思いついたようにエンリコがこう言った。

 「そうかあ。人体解剖して黄金比を調べたダ・ヴィンチにも、たったひとつ証明できなかったものがあったというわけだね。ウィトウィルスの人体図には描けないものがあった・・・」
 
 そこで、マルチェラが食後のデザートを台所から運んできた。苺とヴァニラのジェラートがお皿に盛られると、赤と白の彩りで目の前が華やいだ。

 「そういえば、このあいだ、といっても二年ほど前のことだけど、フィレンツェに行ってきたんですよ

 あれは二年前の春のことだ。ニコリノさんとわたしの共通の友だちがトスカーナで挙式することになり、その機会にみんなでフィレンツェに行こうということになった。そこでまたルネッサンスの巨匠たちの無類の芸術に触れることになったのだが、フィレンツェも、はじめてであれば、名画の鑑賞を優先し、スポットライトのあたらない作品にはあまり目がいかないものだが、あのとき、わたしは、そこにあった聖母子像のその膨大な数にあらためて圧倒されたのだった。

「アカデミアには聖母子像のコレクションが、それはもう数え切れないほどあって、眩暈がするほどだった。当時の女性の理想像といえば、やっぱりマリアだったんでしょうね」

「そうかも知れないわね。聖母子像だったら、わたしは、ラファエロの『大公の聖母』が好きかな」

 マルチェラが言った。

「わたしも!」

 そして、どうやら、そのラファエロの聖母子像をみたときからなのだ。わたしの頭のなかで、カデミアに置いてあったストラディヴァリウスとマリアの腕のなかの幼子が、すっかりすり替わってしまったのは。

聖母子像を見ていて気づいたんですけど、マリアの幼子を抱くスタイル、なにかに似ていると思いませんか?」

 わたしの質問に、みんな黙って考えこんでいる。

こうして腕に抱えて・・・右手で十字を切りながら・・・・弓を引くわけです