2011年1月9日

ソルフェリーノ通り - V

 
 その日の午後、マルチェロから電話が入った。数年前、ミラノで個展を開いたときに来てくれたニキさんのヨガ友だちだが、わたしがミラノにいると風の便りで知ると、こうしていつも声をかけてくれるのだった。その晩は、マルチェロの家でヨガ道場の仲間が集まることになっていた。

 マルチェロの家はソルフェリーノ通りのラルゴ・トレヴィスという広場に面している。フランス式の木造エレベーターで最上階までゆっくりと昇っていくと、扉が開き、マルチェロと奥さんのマルチェラが笑顔で迎えてくれた。おっとりして朗らかなマルチェロはヨガ歴が長い。そして、小柄で細身だが健康的なマルチェラはヨガではなくジムに通っていた。東洋通のマルチェロととてもイタリア的なマルチェラだったが、ふたりはとてもお似合いだった。そして、シンプルだがどこか品格をたたえたブレラらしいこの家に来ると、いつも、清々しい気分になるのだった。明るく広々としたリビングの漆喰の壁には見覚えのある絵が掛かっている。空に青い島が浮いているわたしの絵だ。バルコニーからはすぐ下のソルフェリーノ通りやブレラ美術館が一望できた。しばらくすると、ニコリノさんとエンリコが到着した。マルチェロが冷えた白ワインを振舞ってくれているあいだに、台所ではマルチェラがパスタの準備に取りかかっている。バジリコとトマトの冷製パスタが出来あがると、みんながテーブルに揃った。

 「このあいだ、市立美術館のダ・ヴィンチの展示会に行ってきたの。科学者ダ・ヴィンチをクローズアップしたものだったんだけど、ウィトルウィウス的人体図なんかもあってなかなかおもしろかったわ」

 「ウィトルウィウスといえば黄金比ですよね。死体を解剖してまで人体が黄金比から成ることを証明したんだから凄いですよね、彼は」

 「黄金比といえば、僕はすぐにオウムガイを思い出しますね」

 ニコリノさんが言った。 

 「あれは、月の満ち欠けのリズムに呼応して成長するそうですよ。そのオウムガイから派生したのがアンモナイト。アンモナイトは環境に順応しながら形を変えたので大繁殖したけれど、あるとき絶滅してしまうんです。ところが、黄金比の螺旋形をずっと守り続けたオウムガイは、隆盛を極めることもなかったけれど、いまでも生き続けているというわけです」

「黄金比というのは永遠性の象徴でもあるってことね」

 マルチェッラの指摘にはなるほどとみんなが納得した。黄金比については、みんないろいろと思うところがあるようだったが、そこでマルチェロがおもしろいことを言い出した。  

 「ある気功師さんの話だけど、発声力と声帯と黄金比のあいだにはなんらかの関係があるらしいね。要は、声の出し方なんだそうだ

「発声力は心身を黄金比に近づける調律師ってことなんですかね?」

 ニコリノさんがそう言うと、その場はたちまち発声練習の場に変わった。みんながまちまちに声を出しはじめたのだ。そして、そのとき、ふと思いついたようにエンリコがこう言った。

 「そうかあ。人体解剖して黄金比を調べたダ・ヴィンチにも、たったひとつ証明できなかったものがあったというわけだね。ウィトウィルスの人体図には描けないものがあった・・・」
 
 そこで、マルチェラが食後のデザートを台所から運んできた。苺とヴァニラのジェラートがお皿に盛られると、赤と白の彩りで目の前が華やいだ。

 「そういえば、このあいだ、といっても二年ほど前のことだけど、フィレンツェに行ってきたんですよ

 あれは二年前の春のことだ。ニコリノさんとわたしの共通の友だちがトスカーナで挙式することになり、その機会にみんなでフィレンツェに行こうということになった。そこでまたルネッサンスの巨匠たちの無類の芸術に触れることになったのだが、フィレンツェも、はじめてであれば、名画の鑑賞を優先し、スポットライトのあたらない作品にはあまり目がいかないものだが、あのとき、わたしは、そこにあった聖母子像のその膨大な数にあらためて圧倒されたのだった。

「アカデミアには聖母子像のコレクションが、それはもう数え切れないほどあって、眩暈がするほどだった。当時の女性の理想像といえば、やっぱりマリアだったんでしょうね」

「そうかも知れないわね。聖母子像だったら、わたしは、ラファエロの『大公の聖母』が好きかな」

 マルチェラが言った。

「わたしも!」

 そして、どうやら、そのラファエロの聖母子像をみたときからなのだ。わたしの頭のなかで、カデミアに置いてあったストラディヴァリウスとマリアの腕のなかの幼子が、すっかりすり替わってしまったのは。

聖母子像を見ていて気づいたんですけど、マリアの幼子を抱くスタイル、なにかに似ていると思いませんか?」

 わたしの質問に、みんな黙って考えこんでいる。

こうして腕に抱えて・・・右手で十字を切りながら・・・・弓を引くわけです