2010年12月19日

溜息通りの画廊 - VI


 フアナ・エメ 春の絵画展

  『コロニアの女たち』
  
     フェルナンド・フラガ

 フアナ・エメの前には案内を掲げたイーゼルが立っていた。思っていたとおり個展は溜息通りの画家のものだった。フアナ・エメでは季節ごとに展示会が開かれているが、フェルナンドは春のそれに招待されたのだった。心地よい春の陽射ししに紫色のハカランダの花がほころびはじめ、街路樹の新緑も通りを覆うほどになっている。わたしは、分離帯に植えられている奇妙な格好をしたパロ・ボラッチョを眺めていた。その酒樽のように丸く膨らんだお腹は道化師を思わせる。あの木陰で昼寝をしたら楽しい夢が見られそうだわ。日向でぼんやりとしていると、いつのまにかミミが目の前に立っていた。

 
 カルロス・ペレグリー二通りに面した地下一階の入口へと階段を下り、店のなかに入った。ウェイティングルームでは展示会の来客とおぼしきひとが数人ばかりドリンクを片手に歓談中だったが、わたしたちはそのまま奥へと進み、座ったままですべての作品に目が届きそうなテーブルを探した。店のなかほどにあるカウンターの近くに腰をかけると、ようやくゆっくりと鑑賞できる態勢が整った。そこに飾られていた絵は、すべて裸婦像だった。川岸に座って濡れた黒髪を櫛で梳いている褐色の女、薄暗い部屋で鏡に映るじぶんを眺める女、海の向こうの太陽に向かって歩き出そうとする女。そのどれもが、少女のような素朴な美しさをたたえている。

 「あら、あの絵」
 
 ミミの視線の先にあったのは、フェルナンドのアトリエにあったあの裸婦の絵だった。

 「なんだか、あなたによく似ているわね。体型とか髪型、肌の色、それに胸の水着のあとまでまったく同じ。でも、それだけじゃないわね。あなただと思わせるなにかがある」

 やはり、そうなのだろうか。はじめてこの絵を見たとき、わたしも同じようなことを感じたのだ。じぶんだけの思い込みだと思っていたが、そうでもなかったようだ。

 「実は、この絵のモデルの写真を見せてもらったのよ。金髪で白い肌だった。それを、どうして彼は褐色に日焼けした女性に描き変えてしまったんだろう」

 「さあ、なぜでしょうね。褐色の女性がお気に入りだとか」
 
 ミミは、冗談っぽく笑った。

 「あり得ないことかも知れないけれど、もしかしたら、わたしが画廊に来ることがわかっていたんじゃないかしら」

 「まあ、そういうことも、まったくないとはいえないでしょうね。彼は、はじめは写真の女性を描いていた。描いているときは、そのイメージと常に対話をしている。でも、そうしているうちに、絵の方から、彼になにかを要求してくるようになる。つまり、あの写真が、彼のなかの無意識に働きかけてなにか別のものを描かせることだって十分に考えられるってこと」
 
 わたしには、ミミの言っていることがよくわからなかった。彼女はそのまま話し続けた。

 「肖像画にまつわる不思議な話は意外とあるのよ。わたしにもちょっと変わった経験があるわ。あれは19世紀終わりごろのイタリアの画家が描いたものだった。肖像画の人物の孫にあたるひとが修復を依頼したいと絵を送ってきたの。その数ヵ月後、絵を引き取りに来たひとの顔を見てびっくりしたわ。肖像画の人物と瓜ふたつだったんだから」

 「でも、孫なら似ていても不思議はないでしょう」

「それがね、ただ似ているというだけじゃないのよ。あなたとあの絵みたいに、同一人物じゃないかと思わせるものがあるわけ。画家の直感というやつかも知れないわ」
 
 わたしたちは、フェルナンドの絵に囲まれながらフアナ・エメのスペシャリティであるアルゼンチンの郷土料理を楽しむことにした。それがメニューの目玉なのだ。ミミがここを気に入っているのは、実は、そのメニューのせいだった。お昼どきが終わって店内のざわめきが引いたころ、扉が開いてひとりの男性が入ってきた。フェルナンドだ。入口付近の来客に挨拶をし終わると、奥にいるわたしたちにすぐに気づいたようすで、こちらにやって来た。

 「こんにちは。個展の開催おめでとうございます」

 「おお、あなたでしたか。どうもありがとう。こんなに早くまた会えるなんて思わなかったなあ」

 「こちらは、友だちのミミ」

 わたしがミミを紹介すると、フェルナンドは手を差し出した。わたしは、ミミが画家であること、そして、彼女のドイツ人の友だちが溜息通りの画廊の隣人であることを手短に説明した。たび重なる偶然にフェルナンドは驚いていたが、そのせいなのか、わたしたちは、まるで古くからの知りあいのようにうちとけて話すことができた。エスプレッソが運ばれてくると、フェルナンドは煙草を取り出そうとしたが、またそれをポケットに押し戻した。そして、コーヒーをブラックのままゆっくりと口に運びながらこう言った。

 「実は、あれからもう一度、あの古い写真を取り出して見ていたんだ」

 「アトリエで見つかった、この絵のモデルの写真のことね」

 「それがね、写真の裏にある言葉が書かれていたんだ

 フェルナンドはおもむろに両肘を軽く持ち上げ、左腕を前に伸ばしてその二の腕のあたりに右手を近づけたかと思うと、こんどは肘をゆっくりと後ろに引いた。
 
  「なんだろう・・・ヴァイオリン?」
 
 わたしは、そのとき、彼の画廊を訪れた直後に見た夢のことを思い出した。夢のなかで、舟で川を下りながら少年が抱えていたのも、やはりヴァイオリンだったのだ。

 「ヴァイオリンというと、母が小さいころからずっと習っていたわ。88歳になるいまはもう弾いていないけれど」
 
 ミミのリビングの本棚には古いヴァイオリンが飾ってある。彼女のお母さんのものだ。   

 「父はフルートとギターを弾くのよ。本職は音楽とはまったく関係のない会計士のくせに、変でしょう?」
 
 わたしは、ミミの生立ちについては詳しく知らなかった。彼女とは友だちが企画したパーティで知りあってすぐに意気投合したが、会って話すことといえばいつも絵や音楽のことばかり。これまで、お互いのプライベートに立ち入ったことはあまりなかった。彼女の両親が北部の出身だということを知ったのもつい最近のことだ。
 
 いつのまにか、ミミとフェルナンドはウルグアイのアーチストたちのムーヴメントについて語りあっていた。

 「これから、コロニアを世界中のアーチストたちのミーティングポイントにしていきたいと思っている。ぽつぽつとではあるけれど、海外からのアーチストも集まりはじめているんだ。君も協力してくれないか」

 「もちろん。実はね、わたしもいずれウルグアイに移り住もうと考えているの。このあいだ農場を買ったばかりなのよ」
 
 五百年前に銀の川を下っていってしまったもの、すでにれ出してしまったものをもと通りにすることはできないだろうが、なにもしないわけにはいかないのだとフェルナンドは言った。わたしは、ラプラタ川で銀貨を探していたあの老人のことを思い出していた。川のなかに沈んでしまったものは、もう二度と浮き上がってこないのだろうか。いや、そんなことはない。たどりつくべき場所へとふたたび打ち寄せられていくものなのだ。そして、フェルナンドもミミもそれに手を貸そうとしていている。わたしは、コロニアという小さな町が、少しずつ修復され、彩りを取り戻していくのをこれからもずっと見つめていきたいと思った。