イマコラータと別れたわたしは、いったん宿に戻り、夜まで休むことにした。ジャズフェスは深夜まで続くはずだし、この暑さではそれまでもち堪えられるかどうかわからない。先ほどシスターがくれた地図でチェリモンターナへの行きかたを前もって見ておこうと思いながら、そのまま眠ってしまった。目が覚めたときはすっかり日が暮れていた。わたしは、急いで身支度し、表に出た。大通りまで行くと遠くにライトアップされたコロッセオが見えてきた。
「コロッセオは現代文明の計器のような気がする。それが崩壊したとき世界は終わるのではないだろうか」
だれが言ったのかは知らないが、この遺跡を見るたびにこの言葉を思い出した。この巨大な計器は、いったいこの先どれくらいもつのだろう。修復されることはもうないのだろうか。まるで身動きがとれなくなったまましぶとく生き続ける石の怪物のようだ。完全な崩壊か完全な修復か、どっちつかずのところでうずくまっている。円形劇場につきあたったところで左に折れて道沿いに進んでいくと、先方に高い塀に囲まれた緑が見えてきた。一見したところ墓地のようにも見えたが、それがチェリモンターナのようだった。入口の門の前には切符売り場があり、ジャズフェスのポスターが貼ってある。ここに間違いなかった。
夜も更けて辺りは真暗だ。ヴィラの門をくぐってみると電燈の明かりだけではほとんどなにも見えなかった。ところどころに白い矢印が立っていた。それに従って歩いていけば会場にたどり着くのだろうが、森のなかは迷路のようになっており、かなり歩いたような気がする。ようやくたどり着いたジャズフェスの会場は、森のかなり奥まったところにあった。その造りがどうなっていたのか、暗くてよく覚えていないが、入口付近にはカフェテラス、そして、後ろ手にはドリンクバーがあった。ざっと眺めてみたところ空いている席はもうなさそうだった。客席を見わたしていると、ブエノスで会ったあのピアニストがメンバーと連れだってこちらに歩いてきた。
「こんにちは、マーゴ」
「えっと、確かブエノスで会ったよね。本当に来てくれたんだ」
「もちろんよ。気にいった音楽を聴くためなら、わたしは世界中どこにだって行くわよ」
「終わったらステージの脇においでよ」
マーゴたちは会場を通りぬけてステージの裏へ消えていった。ふと振り返ると、ドリンクバーの大きなソファが目にとまった。少し遠目だったが、ほかに座るところはない。わたしは、白いクッションのソファにゆったりと腰をうずめ、トロピカルドリンクを注文した。その晩のローマは、記録的な高温多湿で、じっと座っていても汗が吹き出してきた。降らない雨のように空気が重い。この森は生きものの肺のようだ。木々はそのなかに気管支のように伸びている。マーゴが鍵盤を叩くと、森が呼吸しはじめた。そして、いよいよその魔法が功を奏してくると、森が歌っているかのようだった。
演奏が終わるとすぐにファンやマーゴの友だちがステージ脇に集まってきた。ここでのマーゴの人気はなかなかのものだ。わたしは、マーゴがファンに解放されたころを見はからってドリンクバーを出た。マーゴは瓶入りのコカコーラを飲みながら、ようやくひといきついているところだった。
「今夜はどうもありがとう」
「次の南米公演は10月27日にサン・パオロだけど、よかったらまた聴きに来てよ」
マーゴは、こんな風に気軽に世界のあちこちに聴きに来てくれとみんなに声をかけていた。
時計を見るともうとっくに真夜中を過ぎていた。わたしはマーゴたちと別れて、ひとりで暗闇に浮かぶ白い矢印をたどりながら、入口とは反対の方向に歩いて行った。どうやら、入ってきた正門とは違うところに出るらしい。しばらくすると、両脇に高い塀が見えてきた。出口はそれを通り抜けた先にあるようだった。ヴィラから出たらコロッセオを目指せばいい。そして、そのまま遺跡沿いを歩いて行けば、ひとりでに宿泊施設に着くはずだ。ところが、ヴィラからすぐのところにあるはずのコロッセオは、わたしの視界からすっかり消えてしまっていた。方向感覚を失ってしまったが、立ちどまっているわけにもいかず、そのまま歩きはじめた。来た道とはまったくようすが違う。どうやら道に迷ってしまったようだ。コロッセオを探しながらどれくらい歩いただろう。このまま、夜明けまでローマをうろつくことになったらどうしよう。不安を感じはじめたとき、密集した建物のすきまから緑色のライトが光って見えた。円形劇場だ。まったく反対方向にかなり歩いてきてしまった。これじゃ、とおりゃんせみたいじゃないか。わたしは、そのわらべうたをなんども繰り返し口ずさみながら夜道を急いだ。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ご用のないもの とおしゃせぬ子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ