2010年12月22日

チェリモンターナの森 - I


 それからの数ヶ月は、わたしはミミのアドバイスを受けながら絵を描くことになった。アドバイスといってもことさらなにをどうしろというものではなく、ただ、同じ空間をシェアしながら作業を進めるというだけのものだ。わたしにしてみれば、経験豊かなミミのそばで絵を描くことはいろいろなことを学ぶ願ってもないチャンスだ。ミミは、絵のインスピレーションのためにいつもジャズを聞いていた。そして、気分が乗らないときなどは、なにもかも放り出してさっさとライブハウスに出かけてしまうのだった。仕事がはかどらないときは、何日もぼうっとしていることもあった。

「駄目なときはなにをしても駄目なのよ。そういうときは、まったく関係ないことをするに限るわけ」

 そんなある日、ミミの知りあいの音楽プロデューサーがコンサートに招待してくれた。外国から招聘されたそのアーチストの名まえを聞いて、わたしはいささか驚いてしまった。ほんのいっときだけだったが、わたしにジャズを教えてくれていたひとの相棒だったからだ。名ギタリストと謳われていたそのひとはミンモという愛称で呼ばれていた。彼らは長いあいだ演奏活動をともにしていたが、ふたりの歯車は少しずつかみあわなくなっていった。そして、とうとう決別のときがやって来る。

 「俺たちは、目指しているものが違いすぎるんだよ」

 その後、ミンモは音楽学校で教鞭をとりながら創作活動を続けていったが、音楽以外の世界にも彼はとても関心があった。以前、ミンモは、『イメージのための即興演奏と音楽』という写真家とのコラボレーションを手がけたことがあったが、これなどはイメージの広がりを視覚的要素と音楽の接点から探求しようとする斬新な試みだった。ミンモの音楽を聴いていると色や形が見えてくる。彼は音で絵を描いているのだ。わたしは、かつては嫌というほど音楽を聴いていた。ところが、絵を描きはじめてからはまったくといっていいほど音楽を聴かない。色がその代役を果たすようになったのだろうか。ということは、わたしが絵に求めているものは音に求めているものと同じ性質のものだということになる。

 喧嘩別れしたミンモの相棒は、その後、スター街道をまっしぐらに登りつめていった。ミンモはそれを羨んだりすることはなかった。むしろ、大スターとなったかつての相棒のことを誇りに思っているようだった。それから10年という歳月が流れ、なにもかもうまく流れに乗りはじめたとき、とんでもない不運がミンモを襲った。脳の障害によって突然昏睡状態に陥ってしまったのだ。事故だったのか病気だったのか、詳しいことは教えてもらえなかったが、遠くにいるわたしにも風の便りは届いた。

ブエノスに秋の気配が忍びよる五月のはじめごろ、わたしはマルセロ・T・アルヴェアール通りのコロッセオ劇場の前でミミを待っていた。大御所トランペッターの熱狂的なファンがたくさんつめかけ、入口付近はごった返しになっている。彼の人気はここでもすっかり定着しているようだった。開演時間を気にしながらヌエベ・デ・フリオ通りの方を見やると、信号を渡って踊るようにこちらに向かってくるミミの姿が見えた。

 わたしたちは、ひと混みを掻きわけながらやっとのことでなかに入った。会場の収容数は500人ほどだ。特別に大きいというわけではなかったが、音響は優れていた。今回、トップスターはマーゴという新人ピアニストを引き連れてきていた。これからが期待される新鋭ピアニストと、前評判は上々だ。演奏がはじまった。曲はすべて彼のオリジナルだ。ラテンを意識した旋律が多く、会場は盛り上がりっぱなしだった。洗練された音の配分と強弱、数学的・幾何学的な美しさ。さすがに申し分のない演奏だ。

 「ミケランジェロがトランペットを吹いたらこんな感じなのかなあ」
 
 ミミは、その完璧な演奏に感服し切っていた。わたしは、ミケランジェロよりも、その相方を勤めているピアニストの方にずっと始釘づけになってしまっていた。

 「鍵盤がジェルみたいに指にくっついちゃってる・・・」
 
 コンサートが終わったらすぐに楽屋へ押しかけることにしていた。ミケランジェロに会ってミンモのことを伝えるためだ。ホール脇の通路の奥には、すでに大勢のファンや関係者たちがつめかけていたが、警備は厳重でみんな足止めされていた。人混みをわって前に乗り出し、警備員に声をかけると、すぐになかに通してもらえた。こんなこともあろうかと、前もってミミがプロデューサーに話しをつけておいてくれたのだ。いちばん奥の控室の前で新聞記者たちがせっせとペンを走らせているのが見えた。ミケランジェロの部屋なのだろう。わたしたちは、とても顔を出せるような状況ではなかった。ふと、通路の端っこに目をやると、先ほどみごとな演奏を聞かせてくれたピアニストがテーブルに片肘をついてひと休みしているところだった。もちろん彼の周りにはだれもいない。
 
 「あんな演奏を聴いたの、生まれてはじめてよ」

 「どうもありがとう」

 ミケランジェロが出てくるまで、わたしたちは、このマーゴというピアニストとお喋りをしながら時間を潰していた。新人ながらも、これからのスケジュールはびっちりつまっているのだという。

 「七月にはローマのジャズフェス。もしそのころイタリアにいたらぜひ聞きに来てね。で、その後は東京。銀座のジャズフェスに出る予定」
 
 「東京は無理だろうけど、ローマなら行けるかも知れない。そのころならたぶんローマにいるはずだから」

 それを聞くと、マーゴはさっそく小さな紙切れにその場所と日時を書いてくれた。

 「チェリモンターナってどこ?」

 「コロッセオの近くにある森なんだ」
 
 まもなくすると、取り巻きたちに囲まれながらミケランジェロが出てきた。わたしたちはすぐに小走りで駆けよった。そして、ミンモの身に起こったことを説明すると、その大スターは取りたてて驚いたような素振りも見せずにこう言った。

 「そりゃ気の毒だったね。そんな風にだけはなりたくないもんだ」
 
 わたしもミミも言葉を失くしてしまった。

「なんだか冷たいわね」

 呆れ顔でミミが言った。

 「本物のミケランジェロならあんなこと言わないわよ。音で絵が描けるのはむしろミンモの方だわ。ローマに行ったらチェリモンターナも行くけれど、ミンモにも必ず会ってくる」 

 その三日後、わたしのところに、昏睡状態だったミンモが目覚めたというメールが届いた。