2010年12月16日

溜息通りの画廊 - V


 ブエノス・アイレスでは、ここ数日のあいだ雨が続いていた。春の雨だ。この街がハカランダの花で薄紫色に染まるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。まだ柔らかい、肉色をしたその芽は、雨に打たれて痛々しそうに見えた。わたしが遠い親戚をたずねてブエノスを訪れるのは、いつもこのハカランダの季節だったが、はじめて寒色系の花に覆われたこの街を見たときの印象は強烈だった。この季節の街が青紫で彩られているという目の前の現実は、それまでじぶんの身体のなかで結びついてしまっていた春は桜という思いを少しずつ解いていった。そして、もうひとつの結びつきを当たり前のこととして受け入れられるようになると、ようやくここで生きているひとたちのこともわかりはじめた。ひとびとと長い年月をともに分ちあっているこの木々たちは、彼らにとてもよく似ている。いや、ひとびとの方が木々に似てきたと言った方が良いのかも知れない。彼らは、空間さえあれば、大きく伸びやかに上にも横にも枝を伸ばし、とどまるところを知らないのだ。そして、それぞれの葉は、小刻みに震えたりくるくると回転したりしながら、気ままな円を描いて踊っている。そんなハカランダが、わたしは好きだった。こころの深くにまで響き入るような音色は、その花の舞いからは聞こえてはこなかったが、その沈黙のなかで華やぐ淡い紫が、遠いところに置き忘れたなにかを喚起させようとしていた。

 ミミのアトリエをのぞきにいこうか決めかねていたが、雨はしだいに小降りになってきた。彼女の家はそう遠くはない。わたしは、ふだん着の上にレインコートだけはおって出かけることにした。アパートの前のなだらかな坂道をのぼって大通りに出ると、強い横なぐりの風にレインコートが煽られ、雨の飛沫が顔にあたった。カルロス・ペレグリーニ通りを渡って骨董屋と画廊が建ち並ぶアロージョ通りに入ると並木のおかげで少しは雨が凌げた。わたしは、小川という意味のこの曲がりくねった道が好きだった。つきあたりのエスメラルダ通りからはじまるこの通りは、いかにもジャングルの秘奥、エメラルドの泉から流れ出る小川を思わせる。 ミミはエスメラルダ通りにあるフレンチスタイルのアパートに住んでいた。アパートの玄関先のポーチに駆け込むと、守衛がすぐに扉を開けてくれた。わたしは、濡れたコートの滴をよく払い落としてから通路のいちばん奥にあるエレベーターホールへと進んだ。ポーチのチャイムを鳴らすとなかから声が聞こえた。そして、いつものようににこやかな笑顔のミミが現れた。金髪のショートボブの前髪からは大きな青い瞳が覗いている。その日は、紺のコットンパンツに水色のシャツ、その上に薄手のグレーのセーターというシンプルな服装だったが、細身の彼女にはとてもよく似合っていた。              

 「寒かったでしょう。すぐにお茶を淹れるからそちらで寛いでいてちょうだい」
 
 彼女のアトリエは機能上三つに分かれている。ソファと本棚のあるリビングの一角にはイーゼルや作業用の机が置いてある。そこで彼女は絵を描いていた。その隣は書斎になっており、コンピューターや電話、ファックスなどが並んでいる。いちばん奥の小さなスペースは修復作業にあてられていた。生計を立てるためだけにやっているという修復の仕事は、彼女の本来の創作活動とはまったく異なったマテリアルを使うため、こうして完全に切離しておく必要があった。気のせいなのか、この修復の場所は、コロニアで訪れた画廊とどこか似たような空気が漂っていた。

 ミミの作品のなかでいちばん気に入っているのは、書斎の壁にかけてある大きな油絵だ。そこにはペルーやボリヴィア、アルゼンチン北部の色鮮やかなテキスタイルと、洞窟画のようなモチーフが混在していた。リビングにはほかにも数々の絵が立てかけてあった。ミミは、二十歳のころからヨーロッパを転々としてきている。カリブ海のグアドループという島に住んだこともあった。ルーヴルの修復を手がけていたころはパリをこよなく愛していたらしいが、あるとき、ヨーロッパではもう描けないと感じたのだという。もちろん、ヨーロッパにいるあいだも、彼女は、アフリカやカリブを描いていた。だが、それは、ヨーロッパから見た彼らのアフリカであり、彼らのカリブだったのだ。そして、彼女は、もうそこにはいられないと思うようになった。生まれ故郷のアルゼンチンに戻った彼女のリエンソ(画布)に現われはじめたものは、それまでとはまったく違った意味をもっていた。ミミは、以前わたしにこんな風に言った。

 「この土地の鼓動が聴こえるようになったんだと思う」

 台所に入るとジンジャーとカルダモンの香りがした。ミミは、わたしの好きなお茶をいつも欠かさずにおいてくれている。勝手口のドアの前にはエジソンがいた。丸々と太ったこの猫は、お腹が空いているとき以外はいつも寝ていた。

 「ねえ、このあいだコロニアに行ってきたのよ。旧市街の溜息通りにある画廊にも行ったわ」

 「あら、あの画廊ならよく知ってるわよ。友だちの家のお隣だもの」
 
 ドイツ人画家のその友だちは、コロニアの家を週末用のセカンドハウスとして使っていた。その画家の描いた絵があるからと、ミミはわたしを寝室へと案内してくれた。ベッドの横に飾られた水彩画には、青々とした蓮の葉とそのあいだから顔を出す蛙が描かれている。

 「彼女がコロニアで描いたものよ」

 わたしは、コロニアでのことをミミに話して聞かせた。

 「ほんの五百年前まではあったのよ。先住民文化というものが、ここにも」
 
 ミミが現在取りかかっている作品は先住民の風習文化を象徴的に記号化したもので、1999年にアルゼンチン北部で発見された「ドンセッラ」と呼ばれるインカの生贄から着想を得たものだった。わたしは、ミミからドンセッラの話を聞いてはじめて、神とのあいだに交わされていた彼らの厳粛な契約について考えさせられたのだった。


 「アトリエにいるのがいちばん落ち着くわ」
 
 ミミにはひとり息子がいる。その息子がパリの大学に通うようになってからはひとり暮らしだ。けれども、寂しそうな素振りは少しも見せたことがない。

 「孤独でメランコリックになることもあったけれど、もう慣れたわ」
 
 彼女がそう言ったとき、わたしは、パリの友だちが教えてくれた言葉を思い出した。

 「La mélancolie, c'est le bonheur d'être triste. (憂鬱とは悲しい状態にある幸福である) わたしにも、いつか、憂鬱が幸福のひとつだと思えるようなときが来るのかしら」
 
 ミミは、すでにその境地に達しているのだろうか。寂しさを紛らわすために彼女が創作に打ち込んでいるのも確かだった。生きるということがもともと孕んでいる影の部分を光に変えていくために、ひとはいつもなにかをしていなくてはならないのだ。

 「すべてはノスタルジーのせいなのよ。ノスタルジックになっているときって水中にいるような感じがするわ」

 「それ、どういうことなの」
  
 「つまり、ふだんはいないところにいるっていうこと」
 
 ミミは微笑みながらそう言った。ノスタルジーとは、ずっととどまっているわけにはいかない場所や時間のことなのだ。いつかはその水の外に出なくてはならないときが来る。そして、身体を乾かし、洋服を着て、いつものようにまた平然と生きるのだ。

 「そういえば、息子がこのあいだ手紙をくれたの。パリのケ・ブランリ博物館に行ってみて、とても良かったって言っていたわ。なんでも、レヴィ・ストロースの百歳のお祝いがあったそうよ」

 「ケ・ブランリなら、わたしも行ったことがある。環太平洋、南北米先住民、アフリカの文化を展示しているところよね」

 「手紙に、おもしろいことが書かれていたわ。博物館のなかを歩いていたら、陳列されているのはじぶんのような気がしてきたって」

 「というと?」

 「ルーヴルもそうだけど、美術館や博物館というのは、それだけで独立したひとつの世界だと思うの。だから、じぶんが異邦人のような気がしたんじゃないかしら」

 「見ているつもりが、実は、見られているっていうわけね」
 
 わたしが言うと、ミミは、ギリシャ彫刻の女神のようなポーズをとっておどけてみせた。
  
 「話は変わるけれど、近々フアナ・エメで個展が開かれるそうよ。行ってみましょうよ」

 フアナ・エメというのは、コロニアの画家に個展の誘いを持ちかけたレストランだ。わたしがブエノスに遊びに来たときはミミとよく食事に出かける。わたしたちは、その個展に足を運んでみることにした。