ずっと気にかかっていたミンモのお見舞いにも行けたしジャズフェスも楽しめた。ローマでの用が終わったら、次はミラノに行くつもりだった。ありがたいことに、ミラノには留守のあいだアパートを使わせてくれる友だちがいるのだ。わたしは、地下鉄のモンテナポレオーネで降りて友だちのアパートに荷物を置いてから、ブレラのソルフェリーノ通りへ向かった。日中のミラノは強烈な暑さだった。歩いていても熱気が地面から跳ね返ってくる。

「マサさんじゃありませんか?」
「おやおや、こりゃまた珍しいひとがいますなあ」
「これから後輩と会うことになっているんですよ」
仕事が終わって家に帰るところだったというマサさんにも、少しつきあってもらうことにした。
「これ、神戸の展示会に出す絵なんですよ。ちょっと見ます?」
マサさんはホルダーを広げ、なかから絵を抜き出した。緻密で繊細なパステルカラーの水彩画だ。見ているとこころが和む。マサさんは、本業はアーチストだが、ほかにもいろいろなことを手がけていた。アーチストの卵のプロモート、ファッションアドヴァイザー、また、最近は貿易コンサルタントもはじめたとかで、とにかく多才なひとだった。そんなマサさんの近況を聞かせてもらっているところに、ようやくチノケンさんが現れた。
わたしは、チノケンさんにマサさんを紹介し、もうひとつジンジャーエールを注文した。
「今朝、パルマに行ってきたんですけどミラノどころの暑さじゃないですよ」
チノケンさんは、こうしてイタリアに来るといつも、かつていた工房のあるパルマに寄るのだ。
「ええ、このとおり」
チノケンさんは背中からリュックを下ろして椅子の上に置き、その口を開いた。大きな生ハムが丸ごと一本入っている。
「これ、ドイツへ持って帰るの?」
「ええ。イタリアは食べものが楽しみなんですよね」
わたしは、チノケンさんに会ったらコロニアの溜息通りの画廊で見つけたあの絵のことを話してみようと思っていた。ヴァイオリンが関わっているからだ。
そうして、絵の写真を収めてきたカメラをふたりの前に置いた。
「なんだか苦しそうな感じだね。追いつめられて逃げ場がないというか・・」
「後ろは壁だから、逃げるとしたら上だよね」
「いや、もうひとつ逃げ場はありますよ。いまこの絵を見ている僕らがいるところ。こっちに来ればいいんだ」
「そっか。そういう考え方もありますね。壁に書いているのはなんでしょうね」
「わたしには、ただなんとなく線を引いているだけに見えるんですけど」
「この絵のモデルになった写真があって、その裏にヴァイオリンって書かれていたそうです」
「僕なんかにしてみれば、女性とヴァイオリンは形的に重なっちゃいますし、裸婦なんかだったらなおさらのこと」
笑いながらチノケンさんが言った。
「部屋の隅に立てかけられたヴァイオリンってところでしょうかね。となると、こちらに逃げてくるのは音?」
マサさんはそう言うと、すっと立ちあがって後ろのカウンターにジンジャーエールのお代わりを注文した。