2011年2月20日

月待ち茶屋 - VI

 
 石垣の上に建てられているお蔵は地面よりも少しばかり高いところにあるので、茶屋のお月見台は、ステージには打ってつけだった。客席は、その横のわりと広い空き地に設けられ、台の上には、紙芝居の舞台と楽団員のための椅子が並べられている。もうそろそろ、西の空では、川下の遥か彼方へと夕陽が沈んでいくところだった。そして、その最後の赤い点が水平線から消えてしまうと、赤い水晶の山の上に、ぽってりとした、太陽かと見まちがうほどの大きな月が姿をあらわすはずだった。

 客席が埋まりはじめると、楽団員がそれぞれの楽器をたずさえてお月見台にのぼってきた。紙芝居の舞台は真んなかのよく見えるところに設置してあったが、ふだんのものよりも少し大きめのものが設えてあった。楽団長が現れ、弦楽器の音あわせが終わると、客席から拍手が起こった。いよいよだ。静かにチェロの音が流れる。そして、ヴィオラ、ヴァイオリン。プロローグが終わると、白いスーツに身を包んだカンタロウおじさんが登場した。そこで拍子木が鳴り響き、紙芝居の舞台の幕がさっと両脇に開かれた。
 

 むかしむかしあるところに、マリオという女の子がいました。マリオには、お父さんもお母さんもいません。遠い親類のおじさんとおばさんが親代わりでした。だれからも愛される明るいマリオでしたが、彼女には、ひとつだけだれにも言えない秘密がありました。おじさんたちにも、です。
 
 学校の音楽会になると、マリオは、必ずお腹が痛くなるので、みんな不思議に思っていました。心配したおじさんたちが、マリオに尋ねてみると、マリオはおずおずと歌をうたいはじめました。
 「ええっ、どうして?」
 おじさんもおばさんもびっくりしました。なぜなら、マリオの歌声はヴァイオリンの音だったからです。
 おばさんは、さっそくマリオを医者に連れていきました。けれども、マリオは病気ではないと追い返されました。一方、おじさんは、古書を調べたり、大学の先生に聞いたり、はたまた占い師や魔術師にも相談してみましたが、どうしてマリオの声がヴァイオリンになるのか、だれにもわかりません。
 そんなとき、おじさんは、赤い水晶の山の奥のそのまた奥に住むといわれている老婆のことを思い出しました。もしかしたら、そのお婆さんなら知恵を貸してくれるかも知れない。そう思ったおじさんは、さっそくその山へ出かけていきました。
 「こ、こんにちは」
 岩窟のなかをのぞき込むと、暗い穴のなかには、ひとりの老女が座っていました。
 「なんの用じゃ」
 「今日は、ひとつご相談があってやって参りました」
 おじさんの事情を聞いたお婆さんは、岩穴の奥に消えたかと思うと、黒い埃のかぶった箱をひとつ抱えて戻ってきました。そして、その箱をおじさんの目前に置くと静かに蓋を開けました。
 「魔法のヴァイオリンじゃ」
 「魔法のヴァイオリン?」
 「これは、音が出ない」
 「そ、それは、壊れているからではありませんか?」
 「ばかを言うでない。このヴァイオリンはの、音の代わりに、もっと凄いものが出てくるのじゃ」
 「ま、まさか・・・」
 「おかしなことを考えておるな。そんなものは出てこんぞ」
 「いえいえ、そんな、滅相もございません」
 「ふむ」
 このお婆さんには嘘はつけません。なんでもお見通しなのです。
 「で、その凄いものと申しますと?
 「ことばじゃ」
 「ええっ?」
 おじさんは、びっくり仰天して、しばらく口がきけませんでした。これは、マリオのケースの逆、あり得ないことではありません。そして、お婆さんの話によれば、このヴァイオリンは、満月の夜にはひとりでもうたい出すということでした。
 「この魔法のヴァイオリンとマリオの声が入れかわってくれればいいのに・・」
 そう思ったおじさんは、そのヴァイオリンを譲ってもらえないか頼んでみました。
 「わしには、いずれこういう日が来るとわかっておったぞよ。これは、マリオのものじゃ。持ち帰りなされ」
 それから少したって満月の夜になると、おじさんは、黒い箱を携えてマリオのところに行きました。
 「マリオ、ちょっとこのヴァイオリンを弾いてごらん」
 マリオは、言われたとおり、ヴァイオリンに弓をあてて引いたり押したりしてみました。すると、どうでしょう、微かに声が聞こえてきました。アヴェ マリス ステラ デイ マテル アルマ・・。なにやらお祈りのようでしたが、その震える声は、まるで生きているかのようでした。
 「なんだか、じぶんがうたっているような気がする」
 そう言うと、マリオは、少しずつヴァイオリンとうたいはじめました。うたっていると、ときどき、どちらが本当のじぶんかわからなくなりましたが、マリオは楽しさのあまり時を忘れてしまうのでした。

 それからマリオは、満月のたびごとに魔法のヴァイオリンとうたいました。けれども、どれだけ満月が昇っても、うたい尽きることはありませんでした。ヴァイオリンは、マリオの知らない歌をたくさん知っていたのです。

 きっと、今夜も、この町のどこかで、マリオがうたっていることでしょう。

 カチ、カチ、カチと拍子木の音とともに紙芝居の幕が閉じると、照明が落とされ、あたりは暗闇に包まれた。ひとり、またひとりとお客がお月見台を去っていく。その遠く向こうには、ぼんやりと、月明かりに照らされてほんのり赤くなった山が、浮かんで見えた。 (完)